境内紹介

あじさい

境内一面に植えられたあじさいは七月中 咲き誇り、中でも中旬が最も見頃です。

昭和42年の夏、山形県南部や新潟地方に大きな被害をもたらした羽越水害の時、裏山の大水で境内端の小川の土手に流れ 着いた山あじさいの株が、ひっそりと花 を咲かせるようになりました。

先代住職の妻があじさいの青い花は当寺の御詠歌「参り来て今はのぞみの笹野山の木草も瑠璃の光ぞ」の語句に叶うと、 昭和45年より境内にあじさいを植え始めました。

あじさい

仁王門

仁王門

天保11年(1840)に民家より出火して仁王門が焼失しました。

現在の仁王門は明治6年、米沢の豪商の渡部伊右ェ門広繁と二代広豊親子が南原の常慶院より金10両で買い受けて移築して再建されました。

安置される金剛力士は、向かって右が口を開けたあ(ア)形、左が口を閉じたうん(ウン)形の像で観音様の聖域である境内を守ります。

仁王様の堅固な身体にあやかり、健康や足が丈夫になるようにと願って、下駄やわらじなどの履き物が奉納されます。

金剛力士像
金剛力士像

弁天堂

延享2年(1745)に建立された五尺四方の小さなお堂は、仁王門をくぐってすぐ右手の杉の古木の傍らにひっそりとたたずみます。

ご本尊の弁天様は色々な別名をお持ちで多くは大弁財天女と呼ばれ、インドから仏教とともに日本に渡られました。

七福神の中、唯一の女天で福徳や智慧を授けます。
特に技芸・弁舌・音楽などにご利益が有り、蛇は弁天様のお使いとされています

弁天堂

千体地蔵堂

千体地蔵堂

嘉永3年(1850)に隣の長厳寺より釈迦堂が移築され、焼失より28年後に再建されました。

ご本尊は「いびた地蔵」と呼ばれます。米沢で長患いして寝込むことを「いびた」と云い、中風除けの地蔵様として信仰され、当寺ではその護符として中風除けのお箸を授与しています。

いびた地蔵菩薩と千体地蔵

ご本尊の周囲には米沢に伝えられている土人形の「相良人形」で造られた地蔵様が一面(796体・S38年調、他破損)に祀られています。

漱口場

漱口場

お参りに先立ち、手を洗い、口を漱いで身体と心を清める手水のための水屋。

水は観音像の前で龍の口から注がれます。昔より笹野は神仏を畏れ敬って、正月の 七日間を肉や魚等を食せず、他人と同じ火を使用しない「精進別火」で穢れ無い清らかな身体で正月を迎えました。

昔も守れなかった人が多かったようで、罰が当たった人は、この水で口を漱げば罪は消え、もし本人が来れなければ代人がこれを謝し、漱水を注ぎ浸せば治癒すと伝えられている。

前の大戦より三日間に短縮され、別火も何時か無くなりましたが、精進の方は今も行っている方が多いようです。

不動堂

一坪ほどの小さなお堂に祀るご本尊は、三股不動と呼ばれる石のお不動様です。

元は境内を流れている小川の水上、門前の家々の水源である三股という所に祀られていました。

昔より門前若衆が祭りを担当し、境内に移った今も、門前若者会が毎年5月8日に祭礼を行っています。

不動堂

延命地蔵菩薩

延命地蔵菩薩

天保三年(1832)に地蔵菩薩を信仰し御利益を頂いたと大地蔵尊建立を発願した父の意志を継ぎ、渡部伊右ェ門広繁が建立しました。

渡部伊右ェ門は今の門東町、米沢税務署や米織会館の所に屋敷を構え、絹糸等の原糸や古着を扱う問屋「大和屋」を営む豪商で観音堂や仁王門再建の大施主を務めるの熱心な信者でした。

基礎及び台座は米沢の赤崩石、お身体は上山の川流石で造られ、総高さ約5メートルの県南一の石像、費用は450両と云われます。

一切経堂

延享2年落成した一切経堂は観音堂と共に焼失、天保14年(1843)観音堂の再建と共に再建なる。

中央に祀る中国の道士中央に祀る中国の道士の傳大士と、俗に笑仏と呼んでいる二人の子、普成、普建の親子三人像で、後に鉄眼版の一切経が和綴じ仕様で納められています。

一切経堂
 
傳大士
 

永年の立木の根の影響か、基礎石が動いて壁が崩れ、お堂全体の傷みも激しく、来年の観音堂創建1200年記念事業として修復予定です。

 

弘法大師堂

昭和59年(1984)に真言宗を開かれた弘法大師のご生誕1200年を記念して建立、落慶慶讃法要が行われました。

弘法大師は名を空海と申され、中国より多くの経典や書物を持ち帰り、書道や文章に秀でて辞書を創り、民間学校を開き、仏像や仏画、堂塔の造営を指導し、宗教のみならず、文化・芸術・土木建築など多方面に活躍して、日本文化に大きく貢献をされました。

弘法大師堂

弘法大師堂

弘法大師の霊場である高野山や四国霊場をお参りできれば良いのですが、今その機会に恵まれない方の為にと前住職清昭和上が高野山と四国八十八カ所を巡拝し、持ち帰った聖地の石を堂内のご宝前に巡らしております。

「後の信徒たちよ、私の現存の姿を見ていなくても形像を見るたびに私に会っている思い、教えを聞くたびに私の声を聞くと思えば、私は智慧と精神統一の力をもって、その思いをすくい取って、けして見過ごしはしない」と申されます。

お堂が開いている時は、直に弘法大師の聖地に立つと念じつつ各石の上を踏んで巡って頂けましたら、きっと弘法大師のお徳に触れることができますこと疑い有りません。

三重の塔

杉林の中にたたずむ5メートルの石造り、宝暦7年(1757)に建立されました。

一番下の階には五輪塔が2基、中の階には大日如来と四仏、最上階には摩尼宝珠がそれぞれ安置されています。

永年の重さに堪えた、観音様参道の敷石に使われた赤色の石が下地として埋められたと、以前はこの塔を廻るとお産が軽くなるという方もいらっしゃいました。

三重の塔

摩尼殿(幸徳院本坊)

摩尼殿(幸徳院本坊)

平成3年(1991)に老朽により再建されました。

ご本尊の大日如来は隣寺の長厳寺が廃寺になってより、一時諸仏の大日堂に移り、後に本坊のご本尊として祀られました。

併設された位牌堂のご本尊、釈迦如来も長厳寺より移られた仏様で、藤原末期から鎌倉初期にかけて地方仏師により刻まれたとする木造一木造りで、幸徳院檀徒のご先祖様をお守りされています。

大宮子易明神

1メートル四方の小さな石宮で、大宮・子易の両大明神を祀ります。

安産や子育てに御利益があると特に女の方達がお参りされます。

嘉永6年(1853)に建立され、後に明治36年(1903)門前の講中により再建されました。

前のお宮も再建のお宮も、石工は門前の原田五郎左衛門家が務めました。

大宮子易明神

厳清龍王

厳清龍王

厳島神社の孫にあたる分霊の神様。
東京中野の中山辰子女史が厳清龍王と名付け、観音堂南の放生池の中に勧請されました。

放生池は魚などの捕らえられた生き物を逃がして、その善い行いの功徳で願い事の成就や罪を滅するための池です。昔は目が良くなるようにとドジョウを放すために、門前でドジョウを売る人がいました。

この池は天保14年(1843)観音堂再建時に笹野村中の寄付で造られました。

句碑


「長閑さや うまれたまゝの ひがしやま」

文化12年(1815)に亡くなった米沢の藩医、山口立玄の俳句。

高さ95センチ、幅44センチ、奥行き60センチの石碑。

如是坊は俳号で当地の俳諧が盛んな頃に、活躍した人。命日等が刻まれることから、同じ藩医で俳句でも活躍した子、梅花堂稲丸こと山口彭寿玄吉(はるよし)か、その徳を慕う者達が、建てたと思われます。

句碑
句碑


「ものいへば 唇寒し 秋の風」

松尾芭蕉の句で、口の災いが自らに降りかかることの戒めを含めて詠んだと言い、教訓を込めた俳句は詠まないと、素直に季節を詠んだものとも言われます。

文化9年(1812)に建てられ、高さ145センチ、幅68センチ、奥行51センチの石碑で、梅花堂稲丸社中として7人の名前が刻まれています。

漱口場の側に建てられたことから、芭蕉の意は別にしても、建立者には口の災いを意識して建てた気が致します。


「観音の甍みやりつ花の雲」

芭蕉が病床の身で、江戸深川の芭蕉庵から深川の浅草の観音様越しに上野の桜を見て詠んだ句とされ、高さ240センチ幅120センチ、奥行90センチの大きな石碑です。
天保14年(1843)は俳諧の祖翁と仰がれた松尾芭蕉の150回忌にあたり、報恩感謝の供養のため建立されました。

俳号、二妙庵晋ふ山の富豪高橋六左ェ門を筆頭に、米沢俳諧に活躍した郁甫こと勝野半助が世話方として建立されました。

句碑

雷神堂

雷神堂

北東へ100メートル離れて小さな杉林に鎮座する雷神様は風雨順時、五穀豊穣を祈る作神様としてお祀りします。

明治28年(1895)にお堂は再建され、縁の下には丸い石が奉納されています。

ご神体の本地仏として十一面観世音菩薩を安置し、地元集落の最上在家衆が祭礼を取り仕切り、笹野の豊作を祈ります。

昔、日照りが続いたときに雨乞いの念仏踊りが行われたと伝えられ、5月8日の祭礼の御札は、ネズミ除けとして御利益があると言われています。

大日堂

東へ700メートルほど離れた諸仏地区白布街道沿いに建つ大日堂は、かつては修験が盛んだった吾妻山の山中、諸仏前の大日岩よりご本体を移されて祀られたと伝えられます。

一時、長厳寺釈迦堂の大日如来が安置されるも、大正2年(1913)に火災に遭い、本体は難を逃れて幸徳院に移されお堂は移築再建されて、新たに大日如来がお祀りされました。

7月27日には諸仏町内会が祭礼を取り仕切り、町内を挙げて行われます。

大日堂

子育地蔵堂

子育地蔵堂

仁王門を100メートルほど下った参道の南側に建つお堂に、4メートルの彩色を施した石の地蔵様が鎮座されています。

元は享保19年(1734)に辻向かいに建立され、道路拡張のにより平成1年に移られ、お堂が再建されました。

泣き止まぬ赤ちゃんを、疲れて眠る家族の迷惑にならぬよう背におぶり、ここへ来るとすぐに止むと、子育地蔵と呼ばれるようになりました。

門前の原田五郎右衛門家が代々、管理を担っています。