直江兼続公は藩主景勝公の祈祷師であった養蔵坊清順に、庄内羽黒山よりの勧請を命じ、観音堂の後神として再び羽黒権現を祀ります。
慶長6年(1601)に上杉二代景勝公が米沢入部され、観音堂を修理します。この前年は関ヶ原の西軍敗退により直江公は長谷堂の戦いから撤退し、それまで上杉領であった羽黒山を差配していた養蔵坊清順は、最上勢の攻撃を恐れて米沢に逃れてきます。この時にご神体を持ち帰ったか、笹野羽黒の別当を務め、毎年人日の一月七日に柴燈護摩を厳修します。時の住職は、これ以前より正月七日間の精進別火が行われ、毎年蘇民将来を刻していると笹野観音縁起に記しています。
『米沢地名選』には、直江兼続公が明鏡院と称した清順に羽黒の本体を取来ることが出来るかと問い、清順は左程難しくは無い、もし取来れば我を侍に成し賜えと云い、直江公はその望みに任すと答え、清順は悦んで七日間潔斎して羽黒に籠もり、ついに取り来たって直江公に差し出せば、直江公は悦び清順を武士に取り立て、今はその孫が藩の与板組にいる、と述べています。
明治初めの神仏分離令まで、直江兼続公に由来する羽黒権現は笹野村の鎮守の神で、観音堂の後の丸い格子の上には「羽黒大権現」の額が掲げられ、参道には近年まで石の鳥居が有りました。
|