永禄3年(1560)現在の新潟県南魚沼市坂戸の城下に、樋口惣右衛門兼豊の長男として誕生、「与六」と名付けられた。
後の上杉二代となる景勝公の母君(謙信公の姉)より聡明を見込まれ、幼少より景勝公の近習として春日山のお城に上がって、共に学問を受け、また謙信公の薫陶を受けたと云われます。
「兼続」を名を加え、謙信公亡き後は直江家を継ぎ、景勝公を助け、学問を好み、神仏を敬って上杉の義を尊ぶ家風を重んじ、藩政に手腕を発揮して活躍されます。
上杉家が越後より会津、そして米沢に移封され、外様の辛苦を舐めながら城下の整備を急ぎ、米沢に大きな功績を残して元和5年(1618)12月19日、江戸にて60歳の生涯を閉じました。
羽黒権現
上杉が越後を統一し、庄内の羽黒山も支配地となり、景勝公の祈祷師、養蔵坊清順が羽黒山の別当を務めます。
直江公は羽黒山の復興を願い堂宇や橋の修復など寄進をしています。養蔵坊清順に対して羽黒権現の勧請を命じ、観音堂の後神として祀らしめました。
羽黒山には慶長5年(1600)10月、養蔵坊の清順が最上の軍勢に襲われて、羽黒別当を辞して米沢へ逃げ帰ったことが記録され、実情は命からがらのようです。
直江公が羽黒の本体を取り来ることが出来るかと当時明鏡院と名のった清順に問い、明鏡院はさほど難しくないと言い、もし取り来れば我を侍にして頂きたいと、七日間潔斎して羽黒に登り、取り来たりて差し出せば、直江公悦びて武士に取り立て、佐野政右衛門といい、実際に還俗して佐野玄誉と称しました。
明鏡院清順が還俗して佐野玄誉と名乗るのは、少し時代が下るようなので(藤田守氏の米沢の修験道略史より)、二つの話が結びついて後世に記されたか(米沢地名選)と思われます。
鉄砲の備え
直江公は上杉家の米沢移封より、領地の警備のため各地に鉄砲を配置し、笹野観音林にも60挺を備えました。
また白布温泉の奥で鉄砲鋳造を行い、東屋旅館の裏には、近年まで鉄砲の鉄の部分が沢山残っていたと伝えられています。




